江川英龍公を広める会
伝江川英龍自画像
江川英龍(享和元年<1801>~安政2年<1855>)
徳川幕府の代官でありながら、鎖国の日本において海防を建議、世界遺産の韮山反射炉を建設、品川台場を建築、日本初の洋式帆船ヘダ号の建造を指揮、パン祖ともいわれる。
画像をお使いになるには使用料が必要です。お問い合わせは公益財団法人江川文庫へ。
江川英龍公を広める会
英龍公は江川家36代当主であり、韮山代官として9代目になります。昭和33年に国の重要文化財に指定された江川邸(重文登録名「江川家住宅」)で享和元年(1801)5月13日に生を受け、安政2年(1855)1月16日に亡くなりました。次男でしたが、長男英虎が代官見習いとなってのち死去しましたので、天保6年(1835)、35歳で当主、代官を継ぐことになりました。鎖国をしていた江戸幕府の旗本であり、伊豆をはじめとする相模・武蔵・甲斐・駿河の一部も治める代官でした。
幕末の産業革命が進んだ欧米諸国が押し寄せ、国内では天保の飢饉が発生するという内憂外患の時期に様々な業績を残しました。その1つが世界遺産となった韮山反射炉の築造でした。その他、品川台場の建設、日露和親条約の締結のため下田に来航中だったロシア使節プチャーチン一行が乗ったディアナ号の遭難によって、一行が帰国するための代替船「ヘダ号」建造の指揮を執りました。英龍公は兵糧のパンを作り「パン祖」ともいわれています。また、運動会などでおなじみの「気をつけ」「進め」「止まれ」などの号令もつくりました。芸術面でもすぐれた作品を残し、まさに日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと言えるでしょう。
伊豆の偉人であり、伊豆の誇りである韮山代官江川英龍公の業績を様々な面で知っていただくため、私たちは「江川英龍公を広める会」を立ち上げました。ご賛同いただける方はご連絡ください。
令和2年9月14日
会長 石渡浩二
お知らせ及び報告
江川英龍公を広める会のイベント、活動の様子、お知らせ、会報、新聞掲載等の記事を掲載します。トピックスとあわせてご確認ください。江川酒の蔵出し、予約についてご確認ください。「韮山代官江川英龍門人録」の予約は終了、引き続き販売中。「開国・下田開港170年」ミニ企画展が始まっています。JR東海ツアーズさんが江川邸でのお茶会を企画してくださいました。
江川英龍公の業績
公益財団法人江川文庫で紹介していますが、改めて、江川英龍公の業績の数々を紹介します。
静岡県民講座
韮山反射炉と江川英龍
令和4年3月 録画、4月27日公開開始
令和4年3月8日は世界遺産登録された韮山反射炉が大正11年に史跡指定を受けてちょうど100年になりました。英龍公が日本を守るために、全力で取り組んだ様子を知ってください。また、英龍公の生き様を知っていただければ、幸いです。
←ユーチューブを視聴できます。画像をクリックしてください。
内憂外患の幕末において、黒船来航の16年前から、他国の武力に屈しない強い日本を創ろうと命を懸けて駆け抜けた、伊豆の代官・江川太郎左衛門英龍。
その生涯を、『膜末の知られざる巨人 江川英龍』の著者・橋本敬之氏、そして江川家第42代当主・江川洋氏が語ります。
2021年は江川英龍誕生220年。
江川英龍を通して、江戸時代から現代の日本に脈々と流れる、日本の精神に迫ります。
韮山反射炉の築造
天保13年(1842)日本を守るため英龍公は幕府に鉄製の大砲を造る建議を行いました。なかなか許可がおりす、最終的にペリー来航により幕府が危機的状況を知ってからになります。その間、刀剣を作る師匠の大慶直胤と鉄の研究を重ねました。直胤から「研究が成功したら日本の御ためになる」との手紙も届いています。常に「日本のため」を考えていました。韮山反射炉は2015年世界遺産に登録されました。
気をつけ、右へならえ
日本人なら誰でも知っている号令です。「前へならえ」は残念ながら作りませんでした。家来の矢田部卿雲にオランダ語から翻訳させて後、農兵を組織した時にも使いました。画像をお使いの場合は使用料が必要です。江川文庫にお問い合わせ下さい。
江川英龍公関連トピックス
江川家は江戸時代、地域の人々からどのように言われていたのでしょうか?実は、「韮山公」「韮山様」「殿様」と呼ばれていました。このように新しくわかったことを書いていきます。
江川コレクション
THE EGAWA COLLECTION
江川文庫に保存されている文化財をレプリカにして製品を製作、皆さまに御届けします。利益を江川文庫への寄附金に充当します。商品は江川邸券売所、コミュニティカフェまちすけ、通信販売で購入できます。